本質は軌跡(KISEKI)に宿る。
「創造の過程」を読み解き、新しい価値を見出すための実験的アプローチ。

本質は軌跡(KISEKI)に宿る。
「創造の過程」を読み解き、新しい価値を見出すための実験的アプローチ。

レンブラントや手塚治虫など、AIの進歩により鬼籍に入った芸術家たちの「新作」が誕生している。既存作品の特徴解析が実現する再現性は、本来存在し得なかった架空の作品を生み出し、芸術家本人の手によるものと一目では見分けがつかない。しかし、果たして芸術とは完成された作品のみを指すのだろうか。私たちが心動かされるのは、そこに秘められた「芸術のローデータ」が影響しているのではないだろうか。

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フェルメールは、どのように描いていたのか

「アトリエで仕事をするフェルメールを10分でも観察できるなら、私の右腕を切り落としてもいい」 

これはサルバドール・ダリ(Salvador Domènec Felip Jacint Dalí i Domènech)がヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)について語ったとされる言葉だ。現存する真作はわずかに35点。日本でも絶大な人気を誇るフェルメールは、静謐さを湛える作風、柔らかな光の表現、そしてラピスラズリの顔料が生み出す鮮やかな「フェルメール・ブルー」で知られるオランダバロック絵画を代表する一人だが、一時期、忘れられた画家であった。寡作であり、日常生活を描いた作品が多かったこと(一般的に、当時の絵画は非日常を描いたものが高く評価された)から、死後、人々の記憶から消えていった。再び注目を集めることになったきっかけは、ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet)やジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet)らによる写実主義の興隆にあった。

そして、そのフェルメールに対して偏執狂的とも言える傾倒を見せたのがダリであった。フェルメール再発見の立役者の一人と言っても良いダリの言ったとされるこの言葉は、シュルレアリスムの旗手がフェルメールの作画法、すなわち「作品が生まれるまでの絵筆の軌跡」や「絵と向き合う画家の試行錯誤のゆくえ」に対して並々ならぬ関心を寄せていたことを伝えるものだ。

「創造の軌跡」を記録し、整理し、価値を与える

ダリは、ルーブル美術館が所蔵するフェルメールの「レースを編む女」からインスピレーションを得て「フェルメールの〈レースを編む女〉に関する偏執狂的=批判的習作」という作品を描いた。ダリが作品から感じた「女性が持つ針の先から広がる宇宙」を可視化しようという試みだ。ここでの宇宙とは、「目に見えないもの」であり、「画家の創造を支えた思考や試行」。つまり、ダリはフェルメール作品が創られる「軌跡」を、自らの筆を通じて明らかにしようとしたのではないだろうか。そして今、デジタルテクノロジーを通じて「軌跡」を可視化し、創作にまつわる新しい価値創造に乗り出そうという意欲的な動きが進められている。それが「KISEKI ART(キセキ・アート)」プロジェクトだ。

このプロジェクトは、「完成した作品だけでなく、その創作過程にも作品に比肩しうる価値があるのではないか?」という問いかけから始まった。ワコム社長 井出信孝は、「『道具屋』である私たちは、クリエイターの右腕となる書き心地を追求したデジタルツールを提供することを目指しています。それに加えて、クリエイターたちの『創造の瞬間』を捉えることができないかと考えました。ペンで入力された情報を単なる線として捉えるのではなく、時間、場所、さらには文脈などの情報を付加することで、創造の軌跡を可視化することができます。この情報をクリエイターに還元する体験を作ることができれば、大きな価値が生まれるはずです」と話す。

テクノロジーが記録する「芸術のローデータ」

「KISEKI ART(キセキ・アート)」は、ワコム、Preferred Networks(プリファード・ネットワークス;PFN)、セルシスによる3社共同の技術開発プロジェクトだ。各社、それぞれの得意領域でプロジェクトに貢献する。

ワコムは、デジタルインクデータを表示・保存する技術である「WILLTM」を持つ。これはデジタルツールに書かれた(描かれた)筆跡に、筆圧、時間、場所といった周辺情報を付与するもの。

さらに、PFNは、AI(Artificial Intelligence;人工知能)の技術開発で高い評価を得ており、深層学習(ディープラーニング)などの最先端技術を活用して「現実世界を計算可能にする」というビジョンを掲げている。このプロジェクトにおいては、特徴量(対象の特徴を数値化したデータ)の変化をAIによって解析し、新しいアートとして表現する部分でその強みを発揮する。

そしてセルシスは、豊富なブラシ表現と自然な描き心地を実現し、多彩な機能を持つグラフィック制作アプリ「CLIP STUDIO PAINT」をはじめとした様々なサービス提供によって、世界中のグラフィックコンテンツクリエイターをサポートしており、本プロジェクトにおいては、専用にカスタマイズされた「CLIP STUDIO PAINT」を提供する。「KISEKI ART(キセキ・アート)」プロジェクトは、3社の持つ技術のコラボレーションを通じて、これまでは不可能だった「芸術のローデータ = 軌跡データを残すこと」を目指したものだ。

KISEKIが開く新しい創作の扉

デジタルツールを介して入力された「創作の軌跡」を記録し、分類し、意味付けする。次に、一つひとつの軌跡を入力として、AIの解析を経由することで視覚的表現に変換。全く別の作品として我々の前に出現する。その表現が還流することで創作者に気付きを与え、新たな創作への刺激となる。この一連の流れをもたらすのは、言うまでもなく最先端のデジタルテクノロジーだ。一方で忘れてはならないのは、このプロジェクトの根本には「創作者に対する敬意」があるということ。一筆ごとに込められる創作者の想いを大切に扱い、その価値を認めることにこそ、プロジェクトの意味があると言えよう。「軌跡」は、クリエイター自身に帰属する資産であり、その作品の来歴を示すウォーターマーク(いわゆる「透かし」。著作権の所在を示すために埋め込む情報のこと)であり、軌跡から生まれるアート表現や新しいサービスの実現も可能とする。すべてはクリエイターの創作を支えるための取り組みなのだ。

フェルメールは、その寡作ゆえに贋作が続々と現れ、その作り手の中には「エマオの食事」などで知られるファン・メーヘレン(Henricus Antonius “Han” van Meegeren)も含まれていた。軌跡を明らかにすることは、創作者の想いに姿かたちを与えることだ。真作と贋作という分類は後世の人間による一つの物差しだが、創作者の想いに関して言えば、そこに優劣を付けることは難しい。贋作づくりを通じて自らの才能を世間に知らしめようとしたファン・メーヘレン。当時その軌跡を可視化することができていれば、あるいは、努力の方向を誤ることもなかったかも知れない。「KISEKI ART(キセキ・アート)」プロジェクトを通じて創作の軌跡が明らかになることで、完成された創作を楽しむ際の「全く新しい指標」が生まれるのではないかという期待が、沸々と湧き上がってくる。


editor / writer_ Chikara Kawakami

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